初期の人類活動を示す証拠として、リオ・カンポ川とンテム地域の中期旧石器時代の石器遺跡があり、4万3000年以上前の出土品が見つかっています。また、近年の調査では、約4万年から2万年前にも活動があったことが示されています。ビオコ島の研究が示す定住はこれより後の時期で、現在の証拠では、現在から約8000年前以降に人々が居住していたとされています。これらの日付は異なる遺跡と調査方法に基づくもので、全国を通じた一続きの年代として扱うべきではありません。 ヨーロッパ人との接触以前については、文書資料が限られています。この地域ではバントゥー語を話す人々の居住地域が広がりました。ファンの人々は特に本土、ブビまたはボホベの人々はビオコ島、ンドウェ、ビシオなどの人々は沿岸地域と結び付けられてきました。アノボン島ではアノボンの人々が、フェルナンディノはクレオールの集団として形成されました。これらの時期の社会組織、移住、集合的記憶は、考古学、言語、口承史、後世の外部記録を通して再構成されています。そのため、民族や歴史の分類は、資料と時代によって異なります。 ポルトガル人との接触と領有権の主張は15世紀後半に始まりました。1778年、スペインは当時フェルナンド・ポーと呼ばれていたビオコ島とアノボン島を取得しました。イギリスは1827年、奴隷貿易の取り締まりを背景にフェルナンド・ポー島を一時占領しました。スペインは1840年代から存在感を強め、1883年以降、本土を実効支配しました。1900年のフランス・スペイン協定でリオ・ムニの境界が定められました。これらの動きにより、後にスペイン領ギニアとして知られる植民地単位が形成されました。 19世紀から20世紀にかけて、植民地の生産は主にパーム油、カカオ、木材を対象とし、宣教活動や、特にナイジェリアからの労働者の移入にも一部依存していました。本土よりビオコ島のほうがプランテーションと輸出に強く依存した経済を発展させ、地域内に不均衡な社会的・経済的影響をもたらしました。スペインは1959年に植民地をフェルナンド・ポー州とリオ・ムニ州に改めました。1963年には、総会議と政府評議会を備えた自治制度が始まりました。1967年と1968年の憲法制定および脱植民地化交渉を経て、国連監視下の住民投票と選挙が行われました。 赤道ギニアは1968年10月12日に「赤道ギニア共和国」(República de Guinea Ecuatorial)として独立し、同年11月12日に国連へ加盟しました。新国家は、スペイン植民地時代の行政機構、輸出依存型の経済、限られた国内行政能力を引き継ぎました。フランシスコ・マシアス・ンゲマ政権下では、1970年に一党制が導入され、1971年には憲法上の中央の制限が実質的に取り除かれ、1972年に大統領は終身大統領と宣言されました。この時期には、弾圧、政治的殺害や投獄、亡命、教育・行政・経済活動の崩壊が見られました。犠牲者数の推計は資料によって大きく異なるため、単一の総数では証拠を確実に表せません。1976年にナイジェリア人のプランテーション労働者が退去したことも、生産と労働体制に影響しました。 1979年8月3日、軍事クーデターによってマシアス・ンゲマは失脚しました。彼は逮捕、裁判の後に処刑されました。公式の国民的記憶ではこの出来事を「自由のクーデター」(Golpe de Libertad)と呼びますが、外国の資料や学術資料では一般にクーデター(coup d’état)と表現します。テオドロ・オビアン・ンゲマ・ンバソゴ政権はクーデター後に始まり、現在まで続いています。1982年に新憲法が制定され、1991年憲法は複数政党制を認め、1993年には初の複数政党制による議会選挙が実施されました。 1995年の海底油田発見と1996年からの生産は、国を急速に変えました。赤道ギニアは、農業、木材、カカオを中心とする経済から、炭化水素を中心とする経済へ移り、大規模なインフラ整備と都市の変化が起こりました。この経済変革と並行して、1979年以降の政治体制は継続しました。改正刑法(Código Penal)は2022年に死刑を全面的に廃止しました。 歴史に関する知識は、全国で一元的に公開された歴史情報サービスではなく、相互に一部独立した複数の経路から得られます。考古学調査や発掘、大学の研究、ユネスコや文化遺産関連の活動、公式年表や演説、国連の脱植民地化記録、スペインと国連のアーカイブ、亡命者やディアスポラの口述史は、それぞれ過去の異なる側面を扱います。教育科学省(Ministerio de Educación y Ciencia)内のユネスコ国内委員会、情報・報道・文化省(Ministerio de Información, Prensa y Cultura)とその文化総局(Dirección General de Cultura)、赤道ギニア国立大学(Universidad Nacional de Guinea Ecuatorial)、INDEFOR-AP、ユネスコ、CSIC、MNCNが関わる研究連携は、記録されている機関や協力ネットワークの一部です。 国連、BOE、ユネスコのデジタル記録は通常無料で利用できます。一方、アーカイブの利用や現地調査の条件は、機関、プロジェクト、必要な許可によって異なります。口述史では地域社会や証言者の同意が必要で、考古学や文化遺産の調査には現地調査許可や文化遺産関連の許可が必要となる場合があります。植民地時代とスペインのアーカイブが文書記録の中心を占める一方、地域の口承史や亡命者・ディアスポラの資料は、そうしたアーカイブでは見えにくい視点を加えます。国内の記憶では独立、「悲哀の記憶」(Triste Memoria)、「自由のクーデター」が特に重視されます。国連や人権関連の記録では、脱植民地化、弾圧、制度の継続性がより強調されます。これらの視点は、単一の中立的な物語にまとめず、比較して扱うべきです。
赤道ギニアの歴史
赤道ギニアの歴史は、人類の定住、植民地支配、脱植民地化、権威主義的な統治、石油生産による変化をたどります。リオ・カンポ川とンテム地域では4万3000年以上前にさかのぼる考古学的証拠が見つかっています。一方、文書記録はスペイン植民地時代と20世紀について特に充実しています。地域の口承史、亡命者の証言、アーカイブ、国際記録は、国の過去についてそれぞれ異なる視点を示しています。
ヒント
赤道ギニアの歴史は、確定した一つの国民的物語ではなく、異なる記録の比較として扱いましょう。疑問ごとに時代、場所、証拠の種類を対応させ、考古学的発見、植民地時代の記録、公式の記憶、口述証言、国際的な文書を区別してください。日付や犠牲者数に異論があれば、単一の確定的な説明に無理にまとめず、異論を明記しましょう。

